良い設計とは....
 良い設計として2点掲げよう。一つ目は、悲しいかな素人には`気づかせない設計´だと心得る。二つ目は、個々の尊厳を守るという姿勢に基づくものである。
 さて、一つ目の例として、例えば椅子に座ってさあ食事をしようとする時、テーブルが5cmも高かったら、オャッと気づく。例えば、階段を降りる時、たった1、2cmだけ低い段が一段でも混じっているとヒヤッとする。例えば、飲み屋の階段に手摺がなかったら何人もそこから転落するだろう。が、実際には降りなれた階段に手摺があったかどうか等、殆ど思い出せないものかもしれない。事実それを握っている時でさえ、あまり自覚しない事も多い。あるべきものが、あるべき形でそこにない時、初めて気づくものである。例えば、ベランダの手摺がもしも30cmもスポット抜けていたらどうだろう。無論、大人であればわざわざは落ちないが、普通目にしたとたん不安を覚える筈である。私たちは、気づかずとも人間工学から導きだされた適切な秩序の中で安全に生活をしている。だから恐怖や不安感、或いは不満を覚えない。何も気づかせない生活環境こそが、実は最適な設計によるものだと言えるのだ。置くべきところに当たり前に家具が置け、当たり前に絵が飾れ、しまうべきものが当然の場所に収納できる..住まいとは少なくともそうした`機能´であるべきである。無理やり置かれた冷蔵庫に、それなりに自分達の生活を馴染ませてはいても、自覚の有る無しにかかわらず、日々の生活の不便さは、微妙に人の好き嫌いに影響を与えている。もしも出し入れに往生する場所に掃除機をしまわざるを得ない環境にいたら、いくら掃除好きでもうんざりしてくるだろう。キッチンが暗く狭く湿っぽかったら、手料理で人を招きたいという生活を望まない。そうした家の主婦は決まって家族の客には遠慮がちで、私は裏方ですからという素振りになる。
 二点目の個々の尊厳を守る必然性だが、例えば、先述とは逆例であるが、農家でありながら若いお嫁さんを気づかって今風なキッチン用意したとしよう。しかし、今まで当たり前の必需品として土間に収まっていた漬物の瓶や樽は小奇麗なキッチンで行き場を失うばかりか、冷ンヤリした土間から明るい場所に移されて、その急激な変化に対応しきれないだろう。泥のまま上げられる季節ごとの大収穫は、その小奇麗なシンクには迷惑なものになるだろう。姑は長年の生業だった漬物を辞めようかとも気を遣い、「時代が違うから」という溜息でごまかし合っても嫁姑は互いにギクシャクし始める...。よくある例だが、これは時代が違う、世代が違うという問題なのではない。台所が適さないのだ。住まいとは体裁ではなく、生活をする為の機能である事を忘れてはいけない。趣味を持つ人の場合にも、同様な配慮が必要だ。家族がその趣味を認めず、新居にそうした配慮を許さなかったら、その趣味は家族中を圧迫する結果になるだろう。夫が客好きでリビングが一つしかなかったら、婦人は息を抜ける場と時を失い、子供は個室に閉じこもる。いつも客が出入りするオープンな雰囲気で、子供の社交性をも育てていると信じ込むのは夫ばかりで、やがて婦人も子供も心内に殺したストレスに耐えきれなくなるだろう。例えば、音楽好きな夫にオーディオルームを設ける贅沢を許せない婦人がいたが、趣味を禁止された夫はどうなるのだろう。楽しみを失って、働くばかりの毎日に新居の為の借金とは何だったのかと、やがては人生にさえ絶望していたかもしれない。そうでなければ人の迷惑におかまいなしに、毎日大音量を独り楽しみ、家族がその横暴に耐えられなくなっただろう。だから、家族全員の個々の尊厳を守る―これが良い設計として不可欠なのである。動物が家族の一員である場合、勿論私は彼らの暮しも忘れない。
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